【創作】ラスト・サパー・アンド・ファースト・サマー
Added 2024-06-10 10:44:31 +0000 UTCコロラド州の州都デンヴァーから、10マイルほど西へ。大平原が終わり、山脈がうねるように盛り上がる、地質学における巨大な波打ち際。そんな場所に〈施設〉はある。 白茶けた岩肌は凍り固まった雪と乾いた草むら、そして疎らな針葉樹林に覆われている。施設の、丸みを帯びた方形の建物がその中に佇んでいる。地形に合わせて非対称に歪んだそのかたちはどこか舟を思わせる。 老朽化したトンネルの出口から施設へと続く、ゆったりと湾曲した道を、無人運転のヴァンが一台、滑ってくる。凍てついた寂しい山道を抜け、車は建物の裏手につける。すると、勝手口から年をとった女が、寒さに震えながら歩み出てくる。女が荷物を運び出すと、無人車は山道を戻り、ひとけのない州都へ帰っていく。 勝手口を入ってすぐの場所に厨房がある。女はそこで荷物を解き、取り出した食材を冷蔵庫に几帳面に詰め込む。彼女はゾエという名で、施設のシェフを務めているのだった。 といっても、すべての食事を手作りするわけではない。レシピと献立を彼女が考案し、あとは自動調理システムに任せる。40人の子どもたちの食欲は、たった一人で立ち向かうにはあまりに旺盛だ。だからゾエがその腕を思い通りにふるえるのは、今日のような特別な日に限られる。 彼女が下ごしらえを終えて厨房から廊下に出ると、施設長のロジャーが立っていた。 「やあ、ゾエ」 日に焼けた壮年の肌。裾の広いスラックスに、半袖の麻のシャツ。 男は、大きな姿見鏡の中にいる。本来はゾエの、厚着した全身が映るはずの場所に。彼女の立つ冷たい廊下とは違い、ロジャーの立つ廊下には明るい日が差し込んでいる。鏡の向こうから、快適に乾いた鳥たちの声が聞こえる。 向こうは夏だ。鏡像世界、ミラーワールドは。 「今年もやるそうだね。3人も楽しみにしてるだろうな」 ロジャーの声は朗らかだが、かすかに皮肉の響きが混じっていた。 「そうね」ゾエの声は冷たい。「あなたの方は、仕事は順調?」 「全く問題なし、成功率100%と言ってもいい。3人とも、実によく固まった」 3人というのは、明日、18歳になって施設を出ていく子どもたちのことだ。女の子はサラとクイニー、男の子がオリヴァー。 ロジャーは続ける。 「15歳まではやや不安定で心配したが、今は立派な大人だ。クイニーが妊娠しなかったのは少々残念だが」 「無事にそっちに移れるよう、祈ってるわ」 「おいおい、君のレシピで育った子どもたちだぞ。健康そのものの素晴らしい型だ。仕事に自信を持ってくれ」 ロジャーは子どもたちを――正確には彼らの肉体を、型と呼ぶ。まるでケーキの焼き型のように。 ミラーワールドに旅立つのは彼らの「中身」だけだ。肉体は精神を焼き固めるために必要な型であって、用が済めば捨てられる。生後18年かけて十分に成熟した精神は、人型の枠を脱ぎ捨て、刺激と自由に満ちたデジタル世界に駆け出していく。こことは違う、春も夏も秋もあるもう一つのアメリカへ。後には、抜け殻になった肉塊だけが残される。 それは、かつて多くの都市が自らの似姿としてミラーワールドを生み出し、じきにミラーワールドに人口を奪われて廃墟群に堕した経緯とよく似ている。 ゾエはロジャーと別れると、悔しさを噛み潰しながら廊下を歩いた。施設の中にはいたるところに鏡が設置されていて、その中を無数の人影が行き交っている。向こう側にいるスタッフは12人。ミラーワールドに着いたばかりの子ども――いや、「元」子どもたちを教え導き、世話をする。対して、肉体を持ったこちら側の大人は、ゾエひとりだけだ。 向こう側のスタッフが通り過ぎた後の鏡に、ゾエの姿が映った。肉体のまま年老いた女が。ゾエは鏡に向かって、低い声で呟く。 「わたしの仕事は工場の責任者じゃない。料理人よ」 子どもたちの過ごす教室棟から、いくつもの声が響いてくる。筋肉と粘膜でできた声帯が大気分子を震わせて伝える、肉声が。 数時間後、厨房に直結した特別食堂のテーブルには、3人分のナプキンと銀器が揃えられる。清潔なテーブルクロスの上に、ショットグラスほどの大きさの蝋燭が4つ並んでいるほかは、明かりはすべて消えている。温められた灰色の壁面を蝋燭の影が舐める。食堂はさながら、古代人の洞穴だ。 そこにハイティーンの子どもたちが3人やってきた。サラ、クイニー、オリヴァー。いずれも着慣れないワンピース、またはスリーピース。質素な椅子に座って待っていたゾエに促され、彼らは無言のまま席につく。サラはクイニーに支えられ、慎重に座る。妊娠しているのだ。 「揃ったね、悪童たち」 ゾエの声が洞穴に反響する。 「これまで散々、無茶なリクエストに付き合わされてうんざりしたわ。今夜は私からの餞別だから、好き嫌い言わずに食べること。いい?」 彼女の言葉に普段とは違う翳りを聞き取った子どもたちは、素直に頷く。 ほとんど話もせずかしこまる彼らを見て、ゾエは微笑む。 「18歳の誕生日、おめでとう」 こうして3人の最後の夕食が始まった。 まずは、厚みのある広皿が3人の前に並ぶ。皿は白く輝くばかりで、何も乗っていない。ゾエは何も言わず、厨房へ引っ込んでしまう。そのまま5分、10分と時間が経ち、子どもたちの困惑は大きくなる。生まれたときからこの施設で育った彼らは、料理を一品ずつサーヴされることすら初めてだ。しかし、真っ白な皿を前に放置される状況は、どこかおかしいと分かる。 サラが右隣のクイニーに不安げな目を向ける。その細く美しい髪を、落ち着かない様子で触っている。オリヴァーはふたりを見つめている。そばかすの多い彼の顔には、生々しい腫れや痣が浮かんでいる。薄く塗られた軟膏が蝋燭の火により、てらてらと光る。ぎこちない無言の時間が流れる。 「わたしに任せて」 小さな眼鏡をかけたクイニーは皿を見つめながら言うと、しばらく考えた後、静かにナイフを手にとった。彼女は蝋燭に照らされた皿の硬い表面に、きめ細やかな凹凸が浮かんでいることに気づいたのだ。ナイフをゆっくりと下ろし、音もなく、皿に突き立てる。 あっ、とクイニーは息を呑んだ。 白と銀が触れたその箇所から、湯気を立てて薄緑色のソースが湧き出してきたのだ。 ソースはじりじりと微かな音を立てながら、皿の上に薄く敷き固められていた純白の粉末に染み込んでいく。クイニーのナイフが皿を大きく斜めに切り裂くと、真新しい緑色の傷からソースが更に溢れ出した。 両隣の子どもたちは彼女の皿を見て目を丸くし、同じようにナイフを突き立てる。ソースは粉末と反応し、産毛のように繊細な針状の物質を立ち上げる。それは青々とした産毛だ。子どもたちの目の前で版図を広げ、3つの小さな雪原を融かし、春をもたらしていく。その様子は羞恥心を覚えるほど奔放で、3人の心臓は高鳴る。目を離せない数秒の後、皿の上には草地が広がっていた。 冷たい岩盤の感触だった食堂の中が、にわかに暖められ、腹の底から食欲が立ち上がる。 いつの間にかゾエがテーブルの前に立っていて、彼らのふかふかの皿の上にモッツァレラチーズの塊を乗せる。駆け出したいようなむず痒い欲求がこみ上げてくる。もう子どもたちは我慢できない。草原はナイフとフォークでたちまち刈り取られ、チーズと絡められて口に運ばれていく。 子どもたちは陽光を感じる。草いきれで肺が膨れ上がり、目の奥にまぶしい点滅を感じる。なめらかな舌触りが気体となってほどけ、食用花やハーブの香りが鼻から抜ける。舌の上の土が耕され、味蕾が起き上がる。驚いて吸い込む息にも、ため息にも豊かな風味がついている。ナイフとフォークはますます夢中で草原を駆け回る。 ゾエはその様子を眺めていた。 施設を出ていく子どもたちを、彼女は毎年こうして特別な料理で見送ってきた。かつて欧州で修行した自慢の分子調理法。手間も費用も大きいが、せめて最後くらい、と施設に無理を言って続けてきた。もう20年近くにもなる。 3人が食堂に入ったときから、脳波の計測が始まっている。子どもたちの神経は初めての味に揺り動かされる。驚きの信号が脳地図の全体に伝播し、スパークと残響を呼び起こす。計測結果は部屋の温度や音響、蝋燭のゆらめきにまでフィードバックされ、料理の味に、さらに複雑な色と影を加える。 子どもたちはゾエの魔法にかかり、彼女の料理を食べながら、彼女に調理されている。そしてそれぞれの脳裏から、記憶が香り立った。 手を動かしながらクイニーは思い出す。 15歳になる前は、サラとふたりでよく散歩をした。1年のうち、ごく短い融雪の季節。山道をそれてしばらく歩くと貧しい草地があって、寝転がると背中がちくちくした。サラを独り占めできるのがたまらなく嬉しくて、何度も彼女を誘っては、ほとんど駆け足で草地を目指して歩いた。 幸福な思い出だった。だから、サラがそれを忘れてしまっていないかと、同じだけ不安になった。 「あの草原みたい」 クイニーが問いかけると、サラは頷く。 サラは思い出す。 昔、3人で繰り返し観た記録映画の中の、ユーラシアの草原の鮮やかな緑。澄んだ上昇気流に乗って名も知らぬ鳥が飛んでいた。それは青ざめた光の下の春の夢だった。3人はいつも一緒にいたが、映像の中では彼女はひとりになれた。それが心の底から幸せだった。ずっとその中にいたいと思っていた。 ふたりの隣で、オリヴァーの額には汗がにじむ。 舌に残るチーズのなめらかな感触に、初めてサラを犯し、クイニーに拒絶された15歳の夜の、シーツの冷たさが生々しく蘇った。彼は下半身の疼きを押し戻そうと必死になり、銀器で春をかき乱し、口に押し込む。怪我をした右手がそれを咎めるように痛む。 3人の胸の中で別々の想念が膨らんでいくのを、ゾエは肉眼と脳波計を通して知る。そうでなくては面白くない。欲望を引き出すのが前菜の役割なのだから。 子どもたちが最初の料理を平らげると、ゾエは皿を片付け、10分ほど間を空けて次の品を出す。 両手に収まるほどの大きさのガラス球が、3人の前に置かれる。球の上部には広口の穴が空いていて、中には青みがかった煙が充満している。穴から煙が溢れ、テーブルの上に薄い層ができる。 引き続きゾエからの説明はない。子どもたちは互いに顔を見合わせる。 オリヴァーは自分の顔がどれほど紅潮しているかを悟り、サラともクイニーともまともに目を合わせられない。 施設での18年間、スポーツこそが健康の証だった。それは何よりも奨励された。肉体を通して自分自身を知り、鏡の向こう側に行っても揺るがない精神の規律を、文字通り身につけるために。 15歳になるとセックスがそこに加わった。ミラーワールドの人々は、肉体を捨てる前に次世代を残すことを勧めた。君たちもそうやって生まれたんだから、と。オリヴァーはいつの間にかそれを強く欲望し、サラは同意した。そして彼女は妊娠した。 それだけだった。人類のためになるはずだった。しかしその夜以来、3人の関係は何かが変わってしまった。 オリヴァーには分からない。なぜ、あと1日で不要になるこの肉体の中で渦巻くものに――筋肉の痙攣や内臓の蠕動にこんなに心を揺さぶられるのか。彼は目の前のガラス球にスプーンを突っ込んで、煙をかき回す。煙は灰色の中に青や紫の複雑なひだを生じながら渦を巻く。 クイニーもまた、訝しんでいる。 なぜ、移住を前にしてこんな不安を感じるのか。移住者の神経系と内分泌系の働きは工芸品のように精巧なモデルに写し取られ、地球上と衛星軌道上に散らばる数百万の計算拠点のどこかに保存される。その後、すべてが続く。クイニーはクイニーで、サラはサラのままだ。 「移住を前に不安になるのは分かる。でもそれは小さい頃、ベッドに入るときに感じた不安と同じさ」 ロジャーは1週間前、姿見の中からクイニーにそう言った。 「翌朝、目を開ければひと安心。君は温暖な都市の、快適な部屋の中にいる。何もかもそのまま持って、終わらない週末の街に繰り出せるんだ」 本当だろうかとクイニーは怪しむ。彼女はオリヴァーを拒絶した。代わりにずっとサラのそばにいて、身ごもった彼女を守ってきた。しかし、セックスを避けた自分の身体イメージは未成熟で、向こう側では人のかたちを保てないのではないか。クイニーはほとんど無意識に、そう恐れている。 子どもは自分の身体のイメージが曖昧だ。だからミラーワールドでは、うまく人でいられない。自己の輪郭を維持できない。肉体のくびきを逃れると、自分自身を見境なく変化させ、どこまでも加速して、ついには意思疎通の取れない怪物になる。 だからアメリカ合衆国は30年前、15歳以下の子どもがミラーワールドに移住することを禁じた。18歳になっても、クイニーにはそうした懸念が他人事とは思えない。 おお、とオリヴァーが感嘆の声を上げた。 テーブルの上のガラス球に変化が起きている。スプーンでかき混ぜた煙が渦を巻き、はっきりとした物質感を伴って、まるで固体のような密実な雲に育っている。そしてその内部で、赤紫の塊が膨らんでいた。オリヴァーがスプーンを差し入れると、ボルシチのように鮮明に赤いスープがすくい出される。 ひとくちその液体をすすると、彼の鼻や頭蓋の中に火花が散る。香辛料の突風が顔を突き抜け、癒えていない全身の傷に痺れが走った。まるで落雷を受けたかのように身体が揺さぶられる。 オリヴァーの脳裏に、1歳年下のピーターの燃える瞳が蘇った。 彼の繰り出した拳がオリヴァーの顎を捉えたとき、世界が二重になって振動した感覚。やり返す右手が相手の鼻にめり込む感触。数人がかりで押し倒され、蹴り回されるときの、土塊になったような屈辱。 あと数日で空っぽになり、土に還るだけの骨格や筋肉を傷つけられることなど、オリヴァーにとってはどうでもいいはずだった。しかし蹴られるほどに、鏡の向こうで永遠を享受する自分自身の精神と、一時的な乗り物に過ぎないはずの青年の肉体の境目が分からなくなった。 人間を作るのに、どうしてこんなに厄介な、肉体なんて代物が必要なのだろう。 スープは、彼がそんな疑問を懐いて地面に転がっていたときの、土と血の味がする。いつまでも頭を離れない問いのように病みつきになるが、刺激が強すぎる。 オリヴァーは咳き込み、サラとクイニーを静止しようとする。 ――これは駄目だ、飲むな! しかしふたりはすでにスプーンに唇をつけている。 クイニーはオリヴァーと同じくスパイスの暴風に襲われ、咳き込んでスプーンを落としそうになる。それでも手を止めず、もうひと匙、もうひと匙と雲から液体をすくって飲む。 彼女は内心、スープがもたらす痛みを喜んでいた。薄暗い食堂で血のような液体を飲んでいると、吸血鬼になったような気分だ。どのみち怪物になってしまうのなら、そういう高貴なものにクイニーはなりたかった。雷鳴の止まない夜、ミラーワールドの辺境にある嵐の城にサラを閉じ込めて、美しい肌も瞳も台無しになるまで改造してやりたいと彼女は思う。自分と同じようにしてやりたいと。スープの色にサラの電子の生き血を想像しながら、そんな自分を罰するために飲み続ける。 もし向こう側に行って壊れてしまうなら、自分など今壊れてしまえ、と彼女は願う。 ほとんど衝動に任せて刺激物を飲み干したふたりにくらべ、サラはスープ自体の味を堪能することができた。妊婦の身体をゾエが気遣い、サラの分だけはスープに手加減をしたからだ。 オリヴァーとクイニーの様子を見てそれを悟り、サラは密かにがっかりする。彼女はゾエの料理が好きだ。前菜にもスープにも胸が高鳴った。だからこそ特別な配慮などしないでほしかった。 彼女にとって、妊婦でいることは憂鬱そのものだった。自分の中で別の存在が育ってきて、体調も気分も、そして価値観や愛情まで、その子の都合のいいように作り変えられてしまう。施設のスタッフは、妊娠は身体イメージを固めるのに良い影響を及ぼすと言っていたが、サラはそれは半分嘘だと思う。 良い影響があるとすれば、それは出産のときだ。へその緒が切られ、他者が自分から切り離される瞬間にこそ、自由を感じられるはずだ。彼女はそう思っている。 サラは、記録映画の草原の上に飛んでいたあの鳥を思い浮かべる。上昇気流を受けながら落ちもせず浮かびもせず、一羽きりでずっと同じ高度を飛んでいた。彼女はあの鳥のようになりたかった。 汗をかいた3人がスプーンを置き、ガラス球の中の暗雲が晴れる頃、ゾエがメイン料理を運んでくる。 3人の前にメイン料理を置いたゾエは、銀のクロッシュを取る直前にテーブルの上の蝋燭を消した。オリヴァーとクイニーは驚きの声を上げたが、憂鬱を増したサラは、小さく息を漏らしただけだった。暗闇の中では自分と他人の境界がますます分からなくなる。 子どもたちの吐息が静まると、真っ暗の食堂の中、どこからともなくノイズが聞こえはじめる。生唾を飲み込んだり、身じろぎしたりするだけで聞こえなくなるほど微かな音だ。そのうち、音は徐々に大きくなり、雨のように粒立ってくる。洞穴の中で音は微細に反響する。子どもたちが耳を澄ませると、それは目の前の料理が発するものだった。 皿が仄かに光り始める。目が慣れてきただけではなく、料理自体が黄色っぽい燐光を発していた。ほとんど見えないくらいの弱い光だ。 盛りつけられているのは、とても肌理の細かいムースだった。皿の上で複雑な流線の渦を描き、中央が上方に5インチほど伸び上がっている。その表面に無数の気泡が立っては消え、心地よいノイズを鳴らしている。3人のムースはそれぞれかたちが異なっているが、彼らに見えるのは自分の目の前の料理だけだ。さながら別々の世界に孤独に佇む、3つの雨の塔だった。 サラは、ぼんやりと闇に浮かぶ塔を眺めながら、そんな場所に住めたらどれほど幸せだろうと想像する。小さな匙で表面を撫でると、一層強くなる雨音とともに美しい魚のような断片が剥離する。小さな塊だが、たっぷりと重い。 口に入れるとそれは一瞬で溶け、柑橘の酸味と、血のような熟成肉の味がこれまたほんの一瞬だけ、広がった。 寂しい、と彼女は感じる。どこにも留めておけない幸福の味だ。右に顔を向けるが、そこにいるはずのクイニーとオリヴァーの姿は暗闇に溶けている。彼女は衝動的に手を伸ばすが、指先は何にも触れない。さらに椅子から身を乗り出すと、暗い床に転げ落ちそうになった。 腹の中で胎児が動く。彼女は我に返り、ムースをもう一口、舌の上で溶かす。 同じとき、クイニーは左の頬に温かいものを感じ、サラのいる方を向いた。彼女にやさしく触れられた気がして、胸の中に甘いものが湧き上がる。 しかし、きっと気のせいだ。サラが愛情を向けているのはオリヴァー、いや彼との子どもであるはずだ。クイニーはある寒い夜を思い出す。今のように雨音がずっと続いていて、月は見えなかった。あの夜、自分もオリヴァーを受け入れていたとしたら、こんなにぎこちない別離の日を、苦しんで過ごすこともなかっただろうか。あるいはあの夜、雨なんか降らず、3人で月見に出かけていられたとしたら。 そんな少しの違いさえあれば、自分たちの現在は別のかたちになっていたのではないかと、クイニーは思う。そうすれば向こう側に行っても、ずっと家族でいられたのではないかと。 燐光を口に運ぶと、存在しなかった月の夜にすべてが巻き戻る気がした。熱くほどける感触が頬を這っていって、彼女は、泣いているのだろうかと訝しむ。 一方、オリヴァーは闇の中で塔を崩しながら、静かに昂っていた。雨音の中、隣にいるサラやクイニーの香水の匂いを微かに感じて欲情している。強い空腹を感じ、ムースを大きくえぐりとって口に運ぶ。満たされるのは一瞬だけで、何度も何度も食べたくなる。 そうやって内臓に支配されている自分自身に、彼は呆れ果てる。一刻も早くミラーワールドの陽光を浴びたかった。自分の肉体の中にある薄暗い欲動から逃れたかった。 オリヴァーは両腕で自分を抱いた。ピーターに蹴られた傷が痛む。どうでもいい身体だ。それなのに、どうしてこれほど重要に感じるのだろう。 その頃、サラはまだ、寂しい、と思っている。 目を閉じてムースを味わう。一言でも感想を交わせればいいのに、今日は3人とも、ほとんど黙ったままだ。 彼女の腹を胎児が内側から小さく蹴る。名前もまだ考えていない。どのみち家族にはなれない。ゾエのような一部の職業人を除き、冬に閉ざされたこちら側の世界に成人が留まることは、資源と人生の無駄遣いだ。だからこそミラーワールドは発展し、廃墟と子どもを残してすべてが向こう側に移った。 子どもの世界と大人の世界は分かれたのだから、赤ん坊とは最初から他人でいた方がいいとサラは思う。彼女の両親もそうしたのだ。家族という単位はアメリカ社会から消え去った。向こう側の人々はもっと確かなもので結びついている。改竄できない情報の鎖に繋がれて、完璧な自己を携えて暮らしている。そこでは誰もが繋がっていて、誰もがひとりだ。 他人といる煩わしさにも、孤独にもとらわれずに済むミラーワールドで、彼女は宇宙探査に従事したいと望んでいた。こちら側の地球の軌道上に浮かぶ観測衛星を棲み家にして、電磁波の手を広げて宇宙を探る。高い空を目指す1羽の鳥になりたかった。 もう、一緒にいることに倦みながら、それでも肉体が感じる愛着で結びついてしまう、家族なんてものは御免だ。オリヴァーもクイニーも、お腹の中の子どもも、もう沢山だ。 ただ、最後の食事くらいは、もう少しにぎやかでもいいはずなのだ。 「柑橘の酸味がおいしい」 目を閉じて、サラはそれだけ言った。 数秒、雨音だけがした。 「本当、おいしいわ。甘じょっぱくて」 クイニーの声が遠くから返ってきた。 「うん、うまいよ」 オリヴァーの声は上ずっていた。 「うまい肉の味だ」 自分たちの表現があまりに素朴で、幼稚で、おかしくて、サラは笑った。胎児がまた彼女を蹴った。 それから暗闇の中に会話が溢れ出した。 ゾエが再び蝋燭をつけると、3人はムースをきれいに平らげていた。小さな光に、眩しそうに目を細める。 「わたしのスペシャリテは気に入ったかな」 3人はまた無口に戻り、息の合わないタイミングで頷いた。ゾエはにやりと得意の笑みを浮かべる。 彼女はふいに、手近にあった蝋燭に手を伸ばし、小さな火を指先でつまみ上げる。そして、3人が驚く暇もなく火を口に放り込み、少し味わって飲み込んだ。 「ちょうど、デザートが食べごろだわ」 彼女はそう言うと、3人が半信半疑で火を飲み込むのを心から楽しそうに眺めた。 子どもたちは食後酒を飲み終え、自分たちの部屋に戻っていった。彼らは明朝、州都に発つ。そこで検査や出産を経て、肉体を捨ててミラーワールドに旅立つ。荷造りはいらない。帰りの旅程もない。 ゾエはテーブルを片付けた後、棚から残り少ないスコッチを取り出し、粗末な椅子に座ってそれを舐めた。先ほど飲み込んだ火がまだ、胃の中で熱い。 料理とは切ない手品だとゾエは思う。肉体を維持するための作業、その一回一回のために無数の道具と工程を組み合わせ、あらゆる小細工を仕込む。あまりにも非効率で、頼りないイリュージョンだ。だから、ミラーワールドには本物の料理はない。こちら側でも、それは失われつつある。 肉体は型だとロジャーは言う。ミラーワールドで生きるための自我と人格をかたち作る、身体経験の焼き型だと。食事という営みは、そのケーキを焼くためのオーヴンの熱に過ぎないと。 ただ、同じ食べ物なら、ゾエは別の喩えを好む。子どもたちの身体は、様々な食材を山盛りにしたサラダボウルだ。3人のボウルにも18年間の記憶や感覚がでたらめに放り込まれ、混ぜ合わされていた。 彼女が今夜振る舞ったものは、その味を鮮やかに引き出すための特別なソースだった。最後の晩餐を通じて記録された子どもたちの脳活動データは、移住後の彼らのごちそうになる。鏡の向こうのレストランやリゾートで味わう数理的なポタージュやテリーヌ、ポワレとなる。そして向こう側で彼らが迷ったとき、自分は確かに生きていたのだと、今も生きているのだと信じるための、ささやかな根拠を提供する。 少なくとも、彼女はそう願っている。 すべての後片付けを終えて自室に戻る頃、窓の外では今夜も雪が降り出した。 ゾエは、初めての夏に駆け出していく子どもたちの姿を想像しながら、毛布に包まって眠りについた。 了 --------------------------------- ※2019年3月ごろに書き、その後、書いたことを忘れていた作品です。