計、十人が働いているとある事務所内。
皆がスーツをビシッときめている中、歳の頃は三十代になったばかりぐらいか、目つきはするどく顔はいかつめの一人の男だけが、胸元を開けた恰好でだらしのない姿をさらしていた。 どっかりと椅子に座り、机の上に両足を乗せて。
されど誰もがこの男に注意をしない。 これはいつもの事ではあるが、何よりもこの小さな会社を仕切る “ボス” という立場にあるので。
そんなボスが座るデスクに向けて、同じく三十代前半ぐらいの人の良さそうな顔をした男が、大きなお腹を揺らして歩いてきたのだった。
手には何やら書かれているハガキを持って。
「柳牛(やぎゅう)さん、これこれ! みてくださいよ!」
「また懸賞ハガキが当選したのか? こういった類の物を応募するのほんと好きだなお前は」
「えへへ、そうなんすよ! これが自分の生きる楽しみでして……てか中身! 早く書かれた内容を読んでくださいよ」
「読めって……またどうせお前が食べるお菓子か何かが当たっただけだろう」
「ふっふーっ♪」
大きなお腹を太鼓みたく叩いて、笑顔を向けて当選ハガキを見せてくる部下の太野(ふとの)。
やたらと自慢気にしているのが腹立つが、しぶしぶ目を通していく。
「ん? なんだこれ……柊温泉の無料宿泊券を当選しました……だって?」
「そうなんですよ! 何か事務所のポストに入ってまして」
「すごいじゃないか! へえーこういうのはただのPRだけで当たるわけがないと思っていたが、マジで当たるもんなんだな」
「えへへ、数を送っておけば意外に一つや二つは当たるもんすよ? ただ今回の温泉宿なんて応募した記憶はないんすけどね……。 いつも自分が送るのは食べ物系っすから」
「ふむ……まあお前の事だ、宿の料理目当てで応募していたんじゃないか?」
「かもしれないっすね!」
楽観的に朗らかに笑う太野。
「んと、俺にこのハガキを見せたって事は、旅行に行くから休みが欲しいって話か?」
「ああ、そうっすけど違うっす! 自分が言いたいのは皆で行きませんか? という話っすよ」
「は? 俺達とか? んなのせっかく行くのなら親とか家族とでも行ってきたらいいだろう」
「いや、自分もそう考えたっすけど、ハガキには企業様のみと書いてあって……。 ほらここに書いてあるっす」
「ん? ああ、本当だな……」
太野のいう通りハガキを見てみると、確かに無料宿泊券は個人ではご使用できません、企業様用となりますと書いてあった。
「ったく……お前は企業用の応募でもしてたんだろうな」
「どうやらそうみたいっすね。 ですのでどうっすか? 丁度十名の団体も可能と書いてありますので事務所の皆で行ってみません? せっかく当たったすから」
「おー旅行か⁉ いいなっ!」
「やるな太野! マジで感謝!」
「柳生さん、大きな仕事も終わった所ですし、せっかくの太野の誘いなんですから行きましょうよ!」
太野の提案に事務所内が騒々しくなる。
周りを見渡すと、太野を含めた “九人全員” が行きたそうにして俺をみていた。
「はぁ……そうだな……。 どっちみちしばらくは事務所を休みにするつもりだったんだ。 よし、皆で行ってみるか」
太野本人が送ったかもよく分からない懸賞のハガキ。
この時の俺はどうかしていた。 いつもの俺なら、こんな怪しい話に乗るはずはないのに。
皆もそうだ。 どうしてこの時に誰も不思議に思わなかったのだろうか。
……重要な仕事を終わらしたばかりで、全員の気が緩んでいたせいなのか。
ああ、後悔というのは物事が起きてからいつもしてしまう。
身をもって経験してから始めて気付くんだ。
……畜生め。
………………
…………
……
「へえー案外いい宿だな」
「ええ、ほんとに。 やたらと長い山道を歩かされた時はどうなるのかと思っていましたが、皆が無事に辿りつけて良かったですね」
「そうだな。 まあしかし無理をさせてしまったせいで太野が大変な事になってしまっているが」
そういって視線を向ける俺達。
そこには部屋の壁に持たれかかって、荒い呼吸を吐いている太野の姿があった。
「おーい、大丈夫か」
「ブヘェー! ブヘェー! む、無理っす……し、死にそうっす……」
太野からグッタリとしながらの返事。
まあこうして喋れているって事は案外平気そうだ。
「それにしても景色が良いし、すばらしいな。 さすが秘境なだけはある」
「ありがとうございます。 これら景色は四季によってまた違った様相が見られるのですよ。 春には窓の景色は桃色に、夏には青々と草葉が色づき、秋には桜紅葉の景色が堪能できますので」
窓の外を眺めながらの、俺の何気ない呟きに答えてくれる声。
振り向くと、綺麗な所作で湯呑に皆の分のお茶を汲んでいる女性と目が合う。
この旅館の柊と性を名乗ったとても美しい女将と。
「ほぅ、いいな。 女将のおすすめはどの季節になるんだ?」
「そうですね、冬は特におすすめでございます。 雪が降れば辺りは白銀の世界となりますので」
「ふむ、そうなるとますます歩いて旅館まで来るのはきつくなりそうだ。 歩いてどのぐらいの時間が経った? 結構な距離だったぞ……傾斜があって体力も奪われたしな」
「ふふ、雪が積もってしまいますと流石に危険ですので、こちらの方でお車を走らせるようにしております。 道の方も当旅館の除雪車で綺麗にしておりますので」
「そうか……。 なら普段でも車で来られるようにしてもらえると助かるんだが。 差し出がましいかもしれないが、それだけでかなり話題になる宿だと思うぞ。 他の客からこれまでよく言われてきているんじゃないか? 歩いて山道を登るのは辛いと」
おそらくそうだろう。 現に脚が張ってしまい、痛みすら感じてしまっているので。
まあ、あまり運動をしてこなかったせいもあると思うが。
「はい、確かにおっしゃられますが、これはあえて歩いて起こしになられるようにしております。 歩き炎症を起こした脚の筋に、当の温泉の効能が良く効きますので」
「ほぅ、この旅館の温泉にはそんな効能があるのか」
「はい、入浴した後の筋は良くほぐれていて、柔らかいけどもしっかりとした筋になっているというお言葉を、よく女性客の皆様方から頂戴しておりますので」
「ん? なんだそれ……えらく筋に対して具体的な感想をいう客だな」
俺には良くわからない感想だったが、この痛みを伴う脚にここの温泉が良く効きそうなので、深くつっこまない事にした。
「ふふ、柳生様もご入浴をされればご理解いただけると思います。 さて、霧絵(きりえ)、露莉(つゆり)、霰(あられ)、お茶を入れ終わったからこの方々のテーブルに並べてちょうだい」
「「「はい」」」
女将の指示に後ろに控えていた年若い三人の娘が、お茶を汲んだばかりの湯呑をテーブルの上に並べはじめていく。
洗練された動きでテキパキと。
「女将、気になっていたのだがその娘達は? 見るからにまだ若そうなのだが……」
「ああ、ご紹介が遅れました。 この子たちは私の娘でございます」
「む、娘っ⁉ 女将の子供なのか!」
「え? え、えぇ……そうですが……?」
結婚はしているのだとは思っていたが、まさかこれほどの大きな子供がいた事に驚いた。
彼女の見た目は若く、てっきり二十五歳ぐらいだと思っていたので。
「す、すまない……。 どうみても女将はまだ若そうなのに、これほど成長した子供が……。 いやはや……中〇生ぐらいか? しかも三人も……」
「若いって、お客様は嬉しい事をおっしゃってくれますね。 私、こう見えて歳はいってるんですよ」
「……うん、BBA。 ――い、いたっ! いたひ……」
テーブルに湯呑を置き終わり、女将の隣に座った娘の一人が、お尻を持ち上げて何故か痛がり彼女を睨んでいる。
だというのに女将はこちらに笑顔を向けたままで、表情一つ動かしてはいない。
いや、若干口元がヒクついてはいるか……。
「いやいや、二十代の半ば辺りにしか見えない……。 それに艶やかさもあって本当に綺麗だ」
「……ま、まあ……柳生様ったらそんなお世辞を言って……」
女将と俺との目が合う。 お互いどれほど見つめ合っていたのか、この言葉が本心で言ってるのだと理解したようで、次第に女将の頬は赤く染まりだしていく。
「ちょ、ちょっと柳生さん、なに娘の前で母親を口説いてるんですか!」
「い、いや、口説いている訳じゃなくて、ただ美しいと伝えようとしただけでだな――」
「それを口説いてるって言うんですよ! まったくこの人は……。 お嬢ちゃん達ごめんな」
「……いえ」
不機嫌になってしまったのか、先ほどとは違う娘からの素っ気ない返事。
確かに娘の前で伝える言葉ではなかったと反省をする。
「こ、コホン! そういえば、玄関先でもいたしましたが、改めて娘を交えてご挨拶をさせていただきますね」
女将と三人の娘は揃って座敷の上に正座をし、姿勢を正す。
「この柊旅館の女将をしております、柊 時雨(ひいらぎ しぐれ)と申します」
綺麗なお辞儀をする女将。 倣って女将の左右に正座をしている三人の娘も挨拶をしてからお辞儀をしだす。
「私は長女の霧絵(きりえ)と申します。 そしてこちらが――」
「……次女の露莉(つゆり)」
「三女の霰(あられ)です」
見た感じ、髪をツインテールにした霧絵(きりえ)という長女はしっかりしてそうな印象を受ける。
露莉(つゆり)という次女は俺が不機嫌にしてしまったせいでどこか素っ気ない。 また目もキリッとしているため、どうしても冷たい印象を受けてしまう。
変わって三女の霰(あられ)は次女と違い、雰囲気はのほほんとして柔らかかった。 とても親しみやすそうな印象だ。
女将はまだ分かるが、どの娘達もちょっとした細部の動きまでもが洗練されていて本当に驚かされる。
この歳でこういう所作が身についているって事は、きっと幼い頃から厳しく躾けられてきたのだろう。
「しかし家の手伝いをしてくれるなんてよく出来た娘さん達だ。 まだ学生なんだろう? 俺がその歳の頃は家に帰ってすらもいなかったぞ」
「うん、あられもそう思う。 だからお小遣いをもっと上げるべき。 ――いたっ! いたひ……」
また腰を浮かした三女。 よく見たら、女将にお尻を抓られているみたいだ。
「まったくこの子ったら……。 でも助かっているのは事実です。 当の柊旅館は身内経営で人手が足りませんので」
「そうなのか、なら客が多くなると捌ききれないだろう」
「はい、ですので本来の当旅館は “会員のみの予約制” となっているのです。 お客様にお出しする新鮮な食材を招かなくてはいけませんので、良くて週に一組と」
「ほぅ、俺達はたまたま抽選ハガキで招待された形だが、元々ここは旅館の会員者のみにしか宿泊できない場所なのか。 ならここは今、俺達の貸し切りになっているのか?」
「申し訳ございませんが、夕方から一組のお客様がお越しになられる予定でして……」
「ああいや、気にしなくてもいいんだ。 俺達はタダで宿泊をしにきた身だしな」
内心は残念に思うが仕方がない事。 何もこの旅館は慈善事業ではない。 経営していくためには宿泊客もいて当然だからだ。
だけども周に一組では甚だ旅館の経営なんてやっていけそうにはないと思うが……。
そのような事を考えていると、壁に背を向けてもたれていた太野の呼吸が落ち着いてきている事に気付く。 あれほどゼェゼェと辛そうにしていたのに、今では座敷の上に子供みたく両足を広げて、俺達の会話を静かに聞いていたようだった。