最果てのパンドラ~サイドストーリー~ 『憧憬の来訪者』 「ただいま」 私の耳は懐かしい声にピンと立ちました。 本を読む手を止め、ベッドから飛び出します。 部屋の扉をあけて、スリッパも履かずにパタパタと駆け出しました。 高鳴る心臓の音を聞きながら、私は息を切らせてリビングに飛び込みます。 「おかあさんっ!」 そこには懐かしい人がいました。 お母さんです。 おかあさんはボロボロのマントをまとい、使い込まれた杖をイスに立てかけていました。長旅で汚れた衣服からは、少しだけ枯れ草っぽい匂いがしました。 「あら、起きていたのね。パンドラ」 半年ぶりに帰ってきたおかあさんは顔を上げて、少しだけ笑ってくれました。 ひどく疲れているようでしたが、私はたまらずお母さんに駆け寄って抱きつきます。 ああ、お母さんの匂いです。 少し埃っぽい匂いがしましたが、私はぎゅっとお母さんに抱きつきます。私はずっとずっとおかあさんが帰ってきてくれるのを待っていたのです。 「おかあさん、おかえりなさい。すぐにご飯を用意しますね」 とうに夕食は終わり、外は夜の帳に支配されています。 それでもやっと帰ってきてくれたお母さんのために、なにかしたいと思いました。 「いいのよ、携行食を少し食べたから」 「せっかくのお家ですよ。温かいものを食べてください」 「……そうね。じゃあ、お願いしようかしら」 お母さんはひどく疲れた声でそう笑うと、イスに腰掛けました。 お母さんはクタクタのようです。ぜひとも美味しいものを作らないといけません。 「任せてください。すぐに作りますから」 私は胸を叩いて、台所に向かいます。 「あんまり急ぐと転ぶわよ」 おかあさんの苦笑する声に「大丈夫ですよ」と、返事をして私は勢いよく樹居(ツリーハウス)から飛び出します。 少し離れたところにある小屋のかまどに、乾いた火打虫を投げ入れて、火口箱で火を付けます。 すぐに火打虫が火を熾し、枯れ草に燃え移りました。 まずは窯でパンを焼き、鍋のかけられたかまどの火を調整します。 かまどにかけられた鍋には、すでに明日のために用意していた食材が入っています。 水がなみなみと入った鍋には白ブドウのワインと、鶏ガラが入っていてしっかりとしたダシができています。これをしばらく煮込むと、美味しいスープが出来上がります。明日の分の朝ご飯が無くなってしまいますが、それは気にしないことにします。 私は鍋のお湯がスープになるまでの間に、踏み台にのってせっせと野菜を切ります。 大人向けの台所は、まだ私には少し高いのです。 「んしょ、んしょ」 踏み台の上では自由に動き回れないので慎重に、皮を剝いて一口大の大きさに切っていきます。 お料理もずいぶんと上手になった気がします。 お母さんはお料理が上手ではないので、本でたくさん勉強しました。わざわざおかあさんに貴重な料理の本までねだりました。おかあさんは私が物語ではない本を欲したことに少し驚いていました。 ときどきしか帰ってこないおかあさんに、美味しいものを食べてほしかったからです。 「よし、あとは」 どんどん切った野菜を鍋に入れていきます。川エビは一度、油で軽く揚げてから余分な油をとってお鍋に入れます。 たくさん出てくるアクをこまめにとって、お塩と豆から作ったというのっぺりとした茶色の調味料で味をつけていきます。おかあさんは、この「おミソ」というものが好きだったそうで、たくさん保存しています。 しっかりとエビの殻まで柔らかくなるのを見計らい、最後の味見を終えると、おかあさんの使い魔である透明の魚たちがやってきました。 「あ、運んでくれるの? ありがと」 二匹の魚たちは、重い鍋をヒョイッと背に乗せて持ち上げると、スイッと泳いでいきます。きっとヤケドしないように気を使ってくれたのでしょう。 私はパンをバスケットに詰め、小走りでおかあさんのところに戻ります。 窯焼きのパンはどれも美味しく出来ているはずです。 「おかあさん。できましたよー」 「……う、ん。ああ」 おかあさんはウトウトとしていました。まぶたが重たそうです。 「ほら、おかあさん。マントとか脱いで、そこで寝たらだめだよ」 「そうだね……うん」 「もう、おかあさん。寝ちゃだめ―」 私は曖昧な返事をするおかあさんをユサユサと揺り起こし、マントの留め金を外します。 マントから乾いた赤黒い粉がパラパラと落ちましたが、それがなにかよく分かりません。手についた粉を嗅いでみると、少し金属っぽい匂いがします。 でも、それがなにか分かりません。 「おかあさん、これなんですか?」 「ああ、なんでもないよ。ちょっと汚してしまっただけさ」 おかあさんは、私の手からマントを奪い返してフラフラと鍋の乗ったテーブルに向かいます。 薄明かりに照らされたおかあさんの顔色はいつもより青白く見えました。フラフラとイスに座るおかあさんのマントの下も、赤黒い粉がべったりとついて服を汚していました 「ねえ、おかあさん」 「パンドラ、一緒にいただきましょう」 「あ、えっと……うん」 私の疑問はその微笑みで掻き消されてしまいます。 そうです。服についていた粉がなにかなんて些末なことです。いまは、おかあさんがラハーブ探しから戻ってきてくれたことを喜ぶべきでしょう。 私は心のアクを取り除き、おかあさんと同じテーブルを囲います。いえ、隣に座ったので囲んだというのは違うかもしれませんが。 「……いただきます」 匙が動き、おかあさんの少し白く濁ったスープを掬います。 ドキドキです。たくさんお料理の練習をしてきましたが、おかあさんは美味しいと言ってくれるでしょうか? おかあさんはくいっとスープをすくって、こくりと飲み込みます。 「ど、どうですか?」 おもわず聞いてしまいます。 おかあさんは匙をもう一回動かし、おもむろに私の頭をなでてくれました。 「おいしいわ。上手になったわね。パンドラ」 その一言で喉の奥が、きゅっと鳴った気がしました。 「私。おかあさん、私すごくがんばったよ。いっぱい練習したよ」 「そうなの。偉いわね、ありがとう」 おかあさんは目を細めて、何度も頭をなでてくれます。 胸がいっぱいになる、というのはこういう事をいうのでしょうか? いままで本でしか読んだことのなかったものが、実感として心臓をしめつけます。 「あのね、あのね。パンも焼いたんですよ。昨日のだから少し湿気ちゃってるけど、こっちのも甘くておいしいんです。それにそれに、これも美味しいですよ」 私は蜂蜜を混ぜ込んだパン、きのみを練り込んだパン、そしてワインも次々にテーブルに並べます。テーブルの周りを飛び回るお魚たちは、その沢山のご馳走に驚いたように右往左往しています。 「パンドラ、さすがにこんなにたくさんは食べられないわよ」 おかあさんはクスクスと笑ってパンを手に取ります。そしてパンの半分を私にくれました。 「……でも、せっかくだからいただきましょうか」 そうして晩餐は始まりました。 二度目の夕食なので私はたくさんは食べることができません。おかあさんも旅の疲れが残っているのか食は細いようです。結局減ったのは三分の一ほど。ですが、久しぶりにおかあさんと話すことができて私の胸は高ぶっていました。 たくさん残った食べ物に保存の魔法をかけ、私は食器を洗います。魚たちが手伝おうとしていましたが、それを固辞します。いまはお皿を洗うことだって楽しいのです。 いくつもの本で謳われた勇者の詩を口ずさみながら、お風呂から聞こえる音に耳をすませます。 流れる水音にしっぽが自然と動きました。 お母さんと一緒に過ごすことなど半年ぶりです。だから、いつも出かけているおかあさんに話したいことがたくさんありました。 ベリーが綺麗に咲いたこと、牛さんのミルクがたくさん出たこと、新しいゴーレムが作れたこと、蜂に刺されそうになったこと、そして新しい本をいっぱい読んだこと。 おかあさんのいない半年間で体験した色んなことを話したくて仕方ありませんでした。 やがておかあさんが、入浴と着替えをすませて戻ってきました。本当は一緒にお風呂に入りたかったのいですが、今日は我慢しました。楽しみは明日にとっておくことにします。 「パンドラ。あなたはもうお風呂はいったの?」 「はい。尻尾もツヤツヤですよ」 「まあ……ホントね」 私はまだ湯気をまとったおかあさんに尻尾を見てもらおうと、ぎゅっと抱きつき、そしてずっと考えていた言葉を口にします。 「おかあさん、今日はいっしょに寝てもいいですか?」 「あら、珍しいわね」 ここ一年間で我慢していた言葉を口にすると、おかあさんは目を丸くしました。そんなことを言うとは思わなかったのでしょう。 「だめですか?」 「ふふっ、もちろんいいわよ」 だけど、おかあさんはすぐに表情を緩めて頭をなでてくれました。尻尾がおもわず左右に揺れました 「えっと、本も読んでもらっていいですか?」 「ええ、もちろんよ」 私の尻尾はおかあさんの言葉に反応して、すごく振れています。 「あら、この本は」 「おかあさんが買ってくれた本ですよ」 「ええ、覚えているわ。あなたってほんとうに勇者のお話が好きね」 「はい。勇者さんも、十聖のみなさんも、それに魔王軍のお話も好きです」 タイトルは『勇者の旅路』と『人魔戦記』です。 前者は十聖の一人として旅をした聖賢の記した書物で、もう一冊は聖盾と呼ばれた英雄の体験記に近いものです。 賢者と呼ばれた聖賢の書は少し難解で、逆に聖盾の本は詩的な物語調に綴られています。どちらも人魔大戦のさなかに書かれたもので、おかあさんが言うには大陸では珍しい本だそうです。 そのうちの一冊、聖盾の本を手に取って私をベッドに誘いました。 「二冊は長すぎるから一冊だけね」 「はい!」 不満などあろうはずがございません。 おかあさんが一緒に寝てくれるのです。ご本を読んでくれるのです。 大切なおかあさんに本を読んでもらう、こんなに嬉しいことがあるでしょうか。 私はワクワクしながら布団にもぐりこみました。 「おかあさん。はやくはやく」 「はいはい」 私は待ちきれない気持ちを口にします。おかあさんは苦笑しながら、私の横に体をいれて、少し目を細めました。ベッドが狭かったのでしょうか? 「大きくなったわね、パンドラ」 「もう十一歳ですから、来年には大人になるんですよね?」 「…………そうね。もうすぐ大人ね」 「私、楽しみです。大人になったらおかあさんと、一緒に旅をしてみたいです。色んなところにいってみたいです」 「っ…………そうね。それもきっと楽しいわね。でも、そのためにはもう少し我慢しないとね」 おかあさんは頭を撫でながらそう言ってくれます。耳をさらりと指がなぞるとくすぐったくなります。 「どこを読んでほしいの?」 「聖盾とドワーフの遺跡がいいです」 「魔狼将リナルドとの出会い?」 「はい」 そこは特に気に入っている逸話です。 本屋に売ってる正伝にはないエピソードです。 おかあさんは「あの堅物が好きとは変わってるわね」と、まるで知り合いのことを語るように微笑んでぱらりとページをめくります。 おかあさんが、ゆっくりと千年前の物語を口にします。 《爪と槌を交えていた聖盾パトリスとリナルドの足元は突如として崩れました。古い遺跡は戦いを想定しておらず、二人の激しい戦いによってついに足場は限界を迎えたのです。崩壊した足場から回避することできず奈落へと落ちていく二人。彼らが感覚が捉えたものは、はるか頭上へと消えていく戦地で交わされる剣戟の火花と、戦乱を渦が生み出す音だけでした》 おかあさんの声を聞きながら、私は書に記された挿絵を眺めます。 もう何度も読み返した本ですが、不思議と飽きはきません。 《闇の深く。遺跡の最下層まで転げ落ちた二人は、すぐに暗闇の中で向き合います。宿敵である相手を前に二人は背を向ける選択はありませんでした。なによりパトリスの聖なる盾には光の加護があり、魔狼リナルドには暗黒を貫く瞳があったのです。光届かぬ深淵の底で二人は、孤立無援の戦いを繰り広げます。振るわれた戦鎚が空を穿ち、魔狼の鋭い爪が聖なる盾の表面を削ります》 話しながらおかあさんは、わざと灯したランプの光を弱めました。 ほんの少しだけ部屋は薄暗くなり、かわりに物語の雰囲気を強めてくれます。 《死の風が吹き荒れ、そして先に膝をついたのは聖盾パトリスでした。魔狼の爪が彼の腹部を切り裂いていたのです。『よく戦った。勇士よ』とトドメをさすために敬意の言葉を放ちながら、リナルドが近づいてきます》 おかあさんの語り口は、しだいに重々しくゆっくりとしたものになってきます。私は真に迫った口調に思わずシーツを握り、固唾を飲んで物語の続きを待ちます。 《しかし、その爪は振り下ろされることはありませんでした。死闘に繰り広げていた二人は、気づけばドワーフの遺跡を住処にしていたロックワームに囲まれていたのです。ギィギィと鳴く、ロックワームの群れに囲まれた二人は言葉も交わすことなく休戦し、ともに背を預けて爪と戦鎚を構えます》 おかあさんの指がふわりと動き、ランタンの火が踊ります。そこに空を泳ぐ魚たちが舞い、壁に影絵で物語を再現します。 細長い影は人も岩も貪欲に食べてしまうロックワーム。背中合わせの二つの影はパトリスとリナルドなのでしょう。 《飛びかかってくるワームを魔狼は投げ飛ばし、その胴体にパトリスの戦鎚が振り下ろされます。聖なる盾がワームの突撃を弾き、鋼をも切り裂く魔狼の爪がワームを両断します。二人はお互いに背を預け、そして戦います。言葉はなく、それでもお互いを守るように》 影絵が動き、どんどん話にも熱がこもってきます。 私は目の前の影絵に釘付けになりながらも、おかあさんの話に耳を立てて夢中になります。 《やがて、二人の周りに動くものがなくなりました。あたりには累々とワームの亡骸が丸太のように横たわり、傷を追っていた聖盾のパトリスもへたりこんでいました。限界だったのです。そんな彼の首に鋭い爪が突きつけられました》 ごくりと私はツバを飲み込みます。ここからが一番好きなところです。 《パトリスもリナルドもなにも語りません…………》 はやる気持ちを抑え、おかあさんの沈黙が破られる瞬間を待ちます。 《そして、不意にリナルドは背を向けました。魔狼が消えた闇の中から魔狼の声がします。『勇士よ。再び相まみえる時まで壮健たれ。我が名はリナルド、願わくば貴公との再戦を』》 こうして、聖盾と魔狼将の初めての出会いは終わりました。 これから二人は何度となく戦場で出会い、運命に導かれたかのように戦いを繰り広げます。そのたびにお互いの立場を越えて、奇妙な友情めいたものを育んでいきます。 「今日はここまでにしましょうか」 そういって本を閉じると、抱きしめてくれました。おかあさんの匂いがします。 「はい。あの……おかあさん、また明日もお願いしていいですか?」 おかあさんは少しだけ驚いた顔をして、いいわよ、と微笑んでくれたのが分かります。 途端に眠気がやってきました。 ふわふわとした安心感と、背中をぽんぽんと叩かれる感覚が心地よくて瞼が下がってきます。いつのまにかランプの光は小さくなり、魚たちの姿も消えていました。 「おやすみなさいパンドラ」 「おやすみなさい。おかあさん」 そして、その言葉を最後に穏やかな暗闇が世界を閉じていきました。 ※※※※※※ 一週間後。また、おかあさんは旅立ちました。 今度は長くならない、と言い残して朝早くから出かけてしまいました。 おかあさんのいない家の中は火の消えたような静けさで、一人でお留守番したいたことが嘘のようにひどい侘しさを感じます。 おかあさんが読み終え、積み重ねられた本が寝室の横には積み上げられています。 「誰もいなくなってしまいました」 空を泳ぐお魚たちは、図書館に『本を覚え』にいったので、いまは本当に誰もいません。 ベッドに腰掛け、おかあさんの読んでくれた本を読み返します。 しかし一人で読み返しても、おかあさんに読んでもらったような驚きもワクワクもありません。 「他の本にしよ」 『聖王叙事詩』『黒エルフ冒険譚』『魔王異伝』『英雄詩篇集』暗記するほど読み返した本がたくさん並べられた棚に、装丁のある重い本を戻して吐息を生みます。 ふいにストンという軽い音が響きます。 「あ、今日のぶんの食材かな」 音のした玄関をあけると、石のゴーレムがのんびりと持ち場に戻るところでした。 「ありがとー」 体中に苔を生やしたゴーレムにお礼をいうも、耳も意思もないというゴーレムは何の反応もせずにノッシノシと去っていきます。 私は、虫がつかないように食材を取り込んでから、気分をかえて外のハンモックに向かいます。 いい天気です。 空は高く、雲はゆっくりと流れています。 きれいな空をみていると、少しだけ寂しい気持ちがやわらいだ気がします。 木のそばには置かれた本を手に取り、ハンモックの隙間から尻尾を出して寝転びます。 本はパトリスの書いたものです。タイトルもない手記で、とある地方にある自由都市の図書館にひっそりと保管されていた本だとおかあさんは言っていました。 それを写本にしてくれたのは、あの魚たちです。 《親愛なる我が友 そして憎むべき魔王軍の将リナルドに捧ぐ》 そう冒頭に添えられた本のページをめくります。 そこには本には記されてはいなかった聖盾の心情がありありと綴られていました。 ドワーフの遺跡で死闘を繰り広げたときの恐怖、共闘したときの興奮、そして別れの感動。 戦場で再会したときの喜び、再び剣戟を交わしたときの高揚、お互いに撤退を余儀なくされたときの寂寥感。 何度となく戦いながらも、膨らんでいった親愛の情。 そして、リナルドの最後の瞬間に口にできなかった声なき慟哭。 パトリスが敵であるはずのリナルドに抱いていた思いが、この本には少しの霞もかけずに書かれていました。 決して世間には公表してはいけないであろう感情、仲間にも打ち明けてはならぬ友誼にも似た思いがつらつらと書かれていました。 私はその本を読み終えて、ほうっと溜息をつきます。 伝説の勇士と魔狼将が結んだ形なき絆に想いを馳せるも、何一つとして想像の域を越えることはありません。 私には旅をした経験も、だれかと友情を育んだ経験もないのです・ だから、十二歳を迎えたら――大人になったら、どんな冒険ができるのかとても楽しみです。 大人になったら、旅立つことを決めています。 友達が出来るでしょうか。色んなものところを旅して色んなものを見られるでしょうか。勇者や十聖、あるいは多くの英雄たちのように誰かを救ったり、なにかを良くしたり出来るでしょうか。 そして、おかあさんと一緒に旅をできるでしょうか? いまからとても楽しみです。 そんなことを考えていると、お魚たちが帰ってきました。 「あ、おかえりなさい」 魚たちの体には無数の文字が泳ぎ、新しい本を『覚えて』きたのだと分かります。魚たちは私が手を振ると、書斎のある部屋にスイッともぐりこんでいきます。その直前に一匹がクイッと頭を下げてお辞儀をするのがみえました。 「いってみよ」 私は本をハンモックに残して書斎に向かいます。 書斎の扉を開くと、ちょうど魚たちが本を作っているところでした。 使うものがいなくなり、少し埃っぽい空気で満たされた書斎の中で魚たちがくるくると空を舞っています。その中心にあるのは虚空に浮いた本。 まだ中身が白紙で埋め尽くされた本に、魚たちがもぐりこみものすごい速度で文字を刻みつけていきます。透明な体に無数の文字を巡らせていた魚たちはしだいに、もとの透明な体に戻っていきます。 「この本、『魔王伝』っていうんだ」 最後に皮の表紙に焼印されたタイトルを見て、私はボンヤリとつぶやきました。 タイトルを刻んだ魚が、赤熱していた体を透明に戻すと本がポトンと書斎机の上に落ちました。 「あ、っと。まだ熱いや」 それを掴み取り、まだ熱を宿した表紙をめくります。 鼓動の早鐘をおさえることができません。 新しい本はいつもドキドキします。 ぺらりと目次もないページを指でつまむと、作者が辿ったであろう大陸の地図と年表が記されていました。 なんとも驚くことに、筆者の名前は魔王軍の大元帥を務めていたシャルトナだと序文にあります。 これは魔王軍の幹部がしたためた本のようです。 「こんな本があったのですね。あなた達ありがとう」 私は高まる興奮をなだめるように、魚の頭を撫でました。いつもは触れられない魚たちは、その行為に身を任せるように実体化して、私の指先をつつきます。 「あはは、そんなにみんなでつついたらくすぐったいよ」 ツンツンと指先に群がる魚たちをなだめ、私は本をもってふたたびハンモックに向かいます。 さっきまで読んでいた本を胸に乗せ、ゆらゆらと揺れるハンモックに背中を預けて、魔王伝のページを開きます。 ――そこには魔王の参謀として活躍した大元帥シャルトナと、魔王の物語がありました。 大陸を竜によって汚染され、全滅の危機に瀕した魔族。彼らをまとめあげ、人間の大陸へと向かった王様の話でした。 魔族と人間の間には大きな誤解があり、払拭できない軋轢があり、どうしようもない悲劇があり、戦わずには同胞たちを守れなくなった王様の苦悩。そして、そんな魔王を傍らで支えようとしたシャルトナの気持ちが一文一文にしっかりと刻まれていました。 興味深いのはシャルトナの直筆であるらしい文字や文章が、最初はたどたどしく、そして年を経ていくごとにしだいに洗練されていくことです。 魔王のもとに参集した幹部たちにもたくさん魅力があります。 ラミアたちの長、ハーピーたちの氏族長、歴戦のオーガ、魔王の師にして大魔法使いの人間、そして私が好きな魔狼のリナルドもいます。 のちに十二将軍と呼ばれる彼らはお互いに反目したりしながらも、しだいに魔王を支える忠臣となっていく様子も描かれ、その物語は連綿と語り継がれる『勇者と十聖』の英雄譚にも決して劣るものではありません。 「こんなに本があったなんて知りませんでした。ねえ、あなたたち、この本どこにあったの?」 私は全体の二割ほど読み終えて、本を運んできた魚たちに問いかけます。しかし、言葉をしゃべることのない魚たちは私の言葉が聞こえなかったかのようにスイッと泳ぎ去ってしまいました。 「こんな面白い話があるなら、もっと知りたいのになー」 そんなことを思いながら、私は本にのめり込んでいきます。 魔王に拾われ、短期間で元帥にまで上り詰めたシャルトナは、各地に魔族の居住地を作るために侵攻を開始します。激しい戦の果て、いくつかの国が破れ、魔族の支配下におかれます。 しかし、その治世は多くの本で語られているものとは違いました。 「私が読んだ本とは全然違います」 多くの書物では魔族による圧政が敷かれたとあります。しかし、戦争で敗北した国の首脳陣は処刑や放逐されましたが、支配地の民はそれほど搾取されてはいなかったように感じます。 リナルドの統治下では犯罪は激減し、他の幹部の支配下でも自由貿易が認められたり、下層階級の身分見直しが行われた形跡があります。暴君の統治下に置かれていた頃よりも、民に歓迎されたという幹部からの証言もあるほどです。 「どっちが本当なのでしょう」 多くの物語では魔王軍とは、悪の組織として描かれています。 しかし聖盾パトリスの手記や、いくつかの異聞録、そしてこの『魔王伝』を読む限りは、必ずしも魔王軍や『悪』とは思えないのです。 「こういうのも旅をしたら、本当のことがわかるのでしょうか?」 私は本にしおりを差し込んで、吐息をこぼしました。 本から目を外して空を見上げます。 そこには青い空と、ふわふわとした雲がありました。 いつのまにか真上にあった日は傾き、私も少し眠くなってきました。手から零れ落ちそうになった本を魚たちが拾い上げ、読み終えた本の上に重ねてくれます。 「ん、ありがと」 やさしい魚たちに微笑みかけ、私はゆっくりと目を閉じました。 『魔王伝』をパタリと閉じて、私は本棚に新しい書物として加えました。 書架にならんだ本は、どれも素敵な物語で、その大半は魚たちが届けてくれたものです。 並んだ本を数えてみると、九十九冊になっていました。次で記念すべき百冊目になります。 「今日はなんの本が届くでしょうか」 予定通りなら今日はお魚さんが本を『覚えて』くる日です。 最近は私の好きな魔王軍の話をよく持ってきてくれるので、本が出来るのを見るのが楽しみで仕方ありません。 私はいつでも本が読めるように着替え、肌寒さを和らげるためマントを羽織ります。カモミールの茶葉を積んで、お湯を沸かします。 魚たちが本を作り始めるのは決まってお昼前なので、それまでに食事の用意を始めます。 厨房に入り、パンの生地を練ります。力仕事はゴーレムさんがしてくれますが、最近は自分で生地を練ってます。旅先でも自分でパンを焼きたいからです。 青空の下でおかあさんと一緒に食べるパンは、きっと美味しいはずです。 パン生地を練って発酵させている間に、シチューを作ります。まだ得意ではありませんが、魔王軍の行軍にはよくリナルドの作ったシチューが登場したので、それを真似してみます。 リナルドの率いる少数精鋭の部隊は、肉芋のシチューを皆で囲み英気を養って戦いに挑んだともありました。 私は鶏肉に近い味という肉芋の皮を剥いて、小さく切ってバターで炒めてから、他の野菜と一緒に水とワインで煮込んでいきます。しっかりアルコールが無くなるまで煮込み、小麦粉を入れて、お塩と香草で味を整えます。 そして、たっぷりと時間をかけて完成した肉芋のシチューが完成します。 味見をしてみると、しっかりと旨味のあるシチューに仕上がっていました。上出来な味でした。 どうでしょうか。魔狼将リナルドの作った料理に近いでしょうか? 肉芋はどこでも採れるというので、旅をしながらこんな料理を作るのも悪くないかもしれません。旅中の食事は味気ないと、おかあさんは言っていたので喜んでくれるかもしれません。 「もっと料理を勉強して、おかあさんを驚かせたいです」 まだ見ぬ旅路を思いながら鍋をかき回していると、魚たちが帰ってきた気配がしました。 「今度はどんな本かな」 火を止めて書斎に向かうと、新しい本はほとんど完成していました。 魚たちは皮の装丁にタイトルをスルリと焼き付けます。少し焦げた匂いのする表紙には『尻尾と杖の物語』とあります。 今度は史実ではなく、純然たる物語のようです。作者はよく知る童話作家のものでした。 しかし、魚たちは筆者の名前を最後まで刻むことなく、ビクリと身を震わせると瞬きをする間にいなくなってしまいます。 「あれ? どこにいくんですか?」 こんな事は初めてです。 魚なので表情もなにもありませんが、ひどく焦っていたように感じました。 私は二階から降りて、魚たちが消えた外に向かおうとリビングに足を踏み入れます。 「あれ?」 そして、気づきます。 扉の外に誰かがいました。 半透明のガラスに誰かの影が映っています。 おかあさんではありません。おかあさんはあんなに背が高くないのです。 それになんだか人影は真っ黒で、もこもこしている感じです。その周囲を取り囲んでいるのが魚たちなのは分かりますが、肝心の人影が誰かまるでわかりません。 首を傾げて、私がドアノブに手をかけると小さくノックの音が響きました。 あまりにささやかなトンという音に、私はドアノブを掴みます。 開いた先にいたのは背の高い人影でした。全身が黒い毛で覆われていて、立派な尻尾があります。 「あの、どなたですか」 おそるおそる声をかけると、人影が振り返りました。 その形は、これまで本で何度となく目にした人狼の姿でした。 長く伸びたシャープな口先に、宝石のような理知的な赤い瞳。すらりと背の高い体を艷やかな獣毛が覆っています。 綺麗なオオカミさんです。 「お客さんですか」 思わず胸が高鳴ります。 それは私が想像していたとおりの黒く美しい人狼の姿でした。 その日、私は憧れと出会ったのです。 最果てのパンドラ~サイドストーリー~ 『憧憬の来訪者』~了~