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氏裸 from fanbox
氏裸

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【小説】俺は美術展の貴婦人画

「ほら見て見て、健司! すごい綺麗!」

「あー、そうだな」


海辺に佇む美女の絵画を見ながら小声ではしゃぐ彼女の美雪に対して、俺は適当に相槌を打った。

ここは有名な画家さんとやらの美術展だ。

美雪はこういう美術展を見るのが好きらしいので付き合っているのだが、正直俺にはあまり面白さがわからない。


「この表情とかすごいよね! アンニュイな雰囲気がまるで本当に生きてるみたい」

「おー、まあたしかに」


頬杖をついて気怠げな表情をする少女の絵を見ながら、俺はまたも適当な返事をする。

上手な絵だ、とは俺も思うがただの絵に対してそこまで感動することもないというのが正直な感想だ。

芸術というものに理解のない俺のような人間からすれば、この美術展はただただ退屈だった。


「こっちの絵もすごいよ! この笑ってる顔なんて今にも笑い声が聞こえてきそうだもん」

「なるほどなー……というか、さっきから人物画ばっかりだな」


俺はふと思った疑問を口にした。

今見ている口を大きく開いて笑っている恰幅のいい男の絵を含めて、入り口からずっと人物の絵しか見てない。

風景とか動物とか、そういった人物以外の絵はここには全くなかった。


「この画家さんは人物画しか描かないみたいなの。最近急に有名になった画家さんでね、名前以外の素性はほとんどわかってないっていうミステリアスな人なんだ」

「へえー、そんなこともあるんだな」


俺は少し不思議に思いながら絵を見上げた。

芸術の世界というと権威主義のイメージが強い。

界隈のお偉いさんに認められた人間が描いた絵というものが評価され、ただ上手いだけの絵はなんの価値も見出されない。

そんな厳しい世界だとばかり勝手に思っていたが、どこの誰ともわからない画家の絵でもこうした美術展が開かれるものなのか。


「あれ? なんだろうこれ……」


すると、美雪が急に足を止めた。

美雪の視線の先を見ると、そこには額縁に入れられた真っ白い紙が飾られていた。


「なんだこりゃ? 白紙じゃねえか。なんで額に入ってんだ?」

「これも作品……なのかな?」

「真っ白な紙を飾って作品って、そんな現代アートじゃあるまいし……」


額縁に一歩近づいてよく見ると、額の下には絵の名前が書かれていた。


「なになに……『椅子に座って微笑む貴婦人』……いや、そんな絵どこにもないが……」

「うーん、運営さんの手違いかな?」

「飾るべき絵がないとか、ちょっと杜撰じゃないか?」


俺は呆れながら額に飾られた白紙を見上げた。

するとその瞬間、突然額縁が光り輝き始めた。


「うわっ、なんだ!?」


突然のことに驚きながら眩しさに目をつむると、体がすごい勢いで絵の方に吸い寄せられていくのを感じた。

咄嗟に白紙に手をつこうとすると、まるで液体に手を突っ込んでしまったかのように俺の手が紙の中に沈み込んでいく。


「なんだこりゃ!? どうなって……うぷっ……」

「健司!?」


そのままの勢いで俺の体が絵の中に飲み込まれていく。

手を動かしても足をばたつかせても勢いは止まらず、ついに俺の体は全身絵の中に飲み込まれてしまった。

目の前が真っ暗で何も見えない。

すると、急にパッと視界が明るくなった。


「うっ……一体どうなったんだ?」


目を開くと、先ほどまでいた美術展の会場が視界に映る。

なんだか、少し高い位置から会場全体を見下ろしているようだ。


「け、健司……」


驚いた様子の美雪がこちらを見ていることに気づいた。


「美雪、俺どうなって……って動けねえ!?」


俺は美雪の方に近寄ろうとしたが、体が全然動かない。

かろうじて顔だけは動かせるが首から下は全くピクリとも動かない。

俺はいつの間にか椅子に座っていたようで、そこから立ち上がることすら叶わなかった。


「健司が……絵になっちゃった……」

「……は?」


美雪の呟きに、俺は思わず間の抜けた返事をしてしまう。

俺が、絵になった?

あまりにも意味のわからない言葉に何を言ってるんだと問い質そうとして、そこで俺は自分の体の違和感に気づいた。

俺の体は今椅子に座っている。

尻に触れている椅子の感覚も、手を乗せている手すりの感覚もある。

だが、その一方で俺の体からは立体感というものが失われていた。

まるで俺の全身が同一平面上にあるかのような、奇妙で気味の悪い感覚。

そんな、まさか本当に……?


「お、おい……美雪、俺の体はどうなってるんだ……?」

「え、絵の中で、椅子に座ってる……というか、健司、大丈夫なの……?」


美雪が困惑した顔でこちらを見上げている。

大丈夫、ではない。

こんな、絵の中に入ってしまうなんて馬鹿げた現象に俺は一体どうすればいいんだ?


「な、なんなんだよこれ!? どうなってんだよ!?」

「っ!? 健司、服が!?」


すると、美雪が俺の体を指差してきた。

服?

俺は今日紺のTシャツにジーパンという格好で来ていた。

それがどうかしたのだろうか?


「なんだよ、俺の服が何か……って、え……?」


下を見ることができないため自分の目で確認はできないが、何かおかしな感覚が肌に伝わる。

伸縮性のある生地でできたTシャツが、まるでレースでできているかのようなサラサラとした質感のものに変わっていく。

さらにTシャツの袖のあった部分に、フリルのようなフワフワした装飾が増え、首周りは胸元が見えるぐらいまで広がっていた。

履いていた革製の靴は爪先のきついハイヒールに変わり、靴下は消えてなくなっていく。

何より気になるのは、硬い生地で足を包んでいたジーパンが、Tシャツと一体化した上にフワリとゆとりを持って大きく広がるスカート状のものに変わっていることだ。

これではまるで、女の服を着ているようではないか。


「……美雪、俺の服、どうなった……?」

「えっと……昔のヨーロッパのお嬢様が着てるみたいな、真っ赤なドレスになっちゃった……」


それを聞いて俺は顔が赤くなっていくのを感じた。

俺が真っ赤なドレスを着ているなんて、これは何かの罰ゲームだろうか。

こんな醜態を絵にされて飾られて、しかもその絵が俺自身だなんて、羞恥心が激しく刺激される。


「健司、どんどん描き変わっていっちゃうよ……ああっ、体まで!?」


美雪が悲鳴のように声を上げる。

美雪から見ると俺が描かれた絵が描き変わるように変化していっているようだ。

俺からはその様子はわからないが、自分が変わっていっているのは感覚で理解できる。

さっきから全体的に締め付けられるようにきつかった服や靴が、体にちょうどいいサイズに変わっていっている。

だが、美雪の言葉を聞くとこれはもっと違う恐ろしいことが起こっているように思える。


「な、なあ美雪、俺の体、もしかして……」

「体が、どんどん女の人に……」


背筋に冷や汗が伝うのを感じる。

服が大きくなっているのではなく、俺の体が小さくなっているのだ。

しかもただ小さくなっているのではなく、女の体に変わっていっている。

その証拠に、さっきまで緩かった胸元は逆にキツくなっていた。

まるで詰め物でもしているみたいに膨れ上がり圧迫感と重量感のある胸に、強い違和感がある。

変化があるのは胸だけではない。

短かった髪は背中に届くほどに長い物になり鬱陶しさを感じる。

手足もどこか頼りなさを感じる細く華奢なものに変わっていき、どんどん体から俺らしさが失われていく。

そして、男の象徴である股間のものも、音もなくあっという間にその存在を失った。


「ああ、俺が……って、声まで……」


喉から出る声まで細く高いものになってしまい、俺の体は完全に女になってしまった。

最後とばかりに、顔の感覚も変わっていく。

わずかな面影すらも残さないという勢いで顔が

描き変えられ、それに合わせて俺の表情は固定化された。

前を向いて微笑むような顔のまま固まってしまい、表情を変えることができない。

口元まで含めて完全に固定化されてしまったため、もう喋ることもできない。

内心ではとても笑うような気分ではないのに、嬉しいことでもあったかのような表情のまま動くことができないのは歯痒くて仕方ない。


「け、健司が……もう別人に…………っ、んっ!?」


すると、俺を見ていた美雪に異変が起きた。

一瞬呻き声を上げたと思うと、目から光が消えて呆然とし始めたのだ。

美雪!

どうした!?

大丈夫か!?

そう声をかけたくても、俺は微笑む表情のまま声を出すことができない。

やがて美雪はハッと気がつくと、目を瞬きさせてキョトンとしていた。


「あれ? 私なにしてたんだっけ? ……そうだ、一人で美術展に来てたんだった。もう、なんで急にボーッとしちゃったんだろう……」


美雪の言葉に俺は耳を疑った。

一人で来た?

何を言ってるんだ、ここには俺と一緒に来たんだろうが。

しかし美雪はさっきまでのことなど綺麗さっぱり忘れてしまったかのように、興味津々といった顔で俺のことを見始めた。


「綺麗な人だなあ。ヨーロッパの貴族の人かな? 赤いドレスが似合ってて素敵……」


元が自分の彼氏だったという認識を完全に失ってしまったのか、美雪は一枚の絵として俺のことを見ている。

おい、どうしたんだよ!?

俺のことわからなくなっちまったのか!?


「あっ、あっちの絵も綺麗……」


美雪はそのまま流れるように別の絵の方へ移動してしまい、俺はその場に取り残されてしまった。

おい、美雪!

待ってくれ!

だ、だれか、俺を元に戻してくれ!

そう叫びたくても、俺はただ前を向いたまま微笑むことしかできなかった。




────────




あれからどれぐらい時間が経っただろうか。

俺の視界には時計が映っていないため、正確な時間はわからない。

しかし、客がいなくなり係員らしき人間が部屋の照明を落としていったことからもう閉館時間を過ぎたのは間違いない。

結局俺は夜になっても絵から出ることができなかった。


「はぁ……一体どうすれば……って、喋れる……!?」


そこで俺は自分が口を開いたり表情を変えられるようになっていることに気づいた。

とりあえず顔だけは解放されたようでホッと息をつく。

もう夜で客がいなくなったからだろうか。

人がいる前では絵になって動けないのに、誰も見ていないところでは喋れるだなんてまるでどこかの映画みたいな話だ。


「もし。そこのお嬢さん。大丈夫ですかな?」


すると、どこからか声が聞こえてきた。

誰だ?

周りには人間は一人もいない。

しかし、確かに声は聞こえる。

低くしわがれた老人のような声だ。


「こちらです。貴女の正面にある絵を見てください」


俺は目を凝らして正面を見た。

すると、そこには杖をついて佇んでいるスーツ姿の老紳士の絵が飾られていた。

蓄えられた白い髭と深い皺が印象的なお爺さんの絵だ。

まさか、あれが喋っているのか?


「そうです。私です。貴女のことは今日一日ずっと見ていました。彼女さんとここに来て、そして絵になってしまうところも」

「っ!?」

「きっと驚いたことでしょうなあ。実はですね、私もなのですよ。私も、元は人間でした」

「あ、貴方も!?」


目の前の老紳士の言葉に驚きを隠せない。

まさか、絵にされたのは俺だけじゃなかったのか。


「私は元はうら若き乙女でした。しかし、友人と共にこの美術展に来た際、絵に飲まれてしまい、今ではこの通りです。いやはや、まさかこんなことになってしまうなど、あのときの私は思いもしませんでした」

「…………」


うら若き乙女だったということは、この老紳士も俺と同じように違う性別の人間の絵にされてしまったということか。

だがそれにしてはなんていうか。


「乙女というには、喋り方が……」

「ああ、これですかな? ここで絵になった人間は絵の姿の通りにしか振る舞えなくなってしまうのですよ。もちろん、貴女だって例外ではありませんよ、お嬢さん」

「はい? 何をおっしゃいますの? わたくしは普通に喋れ……って、あら……?」


俺は思わず口をつぐんだ。

言葉が、おかしい。

俺は普通に喋ろうとしただけなのに、明らかに思っているのと違う言葉が口から出てくる。


「ど、どうなってますの!? わたくし、普通に喋ろうと……くっ、な、なんですの!? この口調!? お、お……わたくし……ああもう、自分のことをわたくしと言ってしまいますわ!」


俺、と言おうとしても、発声する瞬間にわたくしという言葉に書き換えられてしまう。

まるで口調が強制されているようにお嬢様言葉しか喋れなくなってしまっていた。


「無駄ですよ。絵にされた人間はもうそのようにしか喋れないのですから」

「お爺様、わたくしたちはどうなるのですか……? 元に、戻れるのですよね……?」


俺が尋ねると、老紳士は一瞬言葉を詰まらせた。


「……実は私たちだけではないのですよ。ここに飾られている絵、これらは全て元は人間でした」

「す、全て!?」


全てということは、今日見てきた海辺に佇む美女の絵も、頬杖をついて気怠げな表情をする少女の絵も、口を大きく開いて笑っている恰幅のいい男の絵も、元は全部人間だったということか?


「貴女の隣に飾られているひまわり畑で笑顔を浮かべている少女の絵も、数日前までは私たち同様話すことができていました。元は二児の父親だったと名乗っていました。しかし、今は完全に絵になってしまい、もう声を出すこともありません」

「そ、それって……」


あまりにも恐ろしい事態に、俺はわなわなと声を震わせた。


「絵にされた人間は時間が経つことで完全な絵になってしまうのです。身体だけではなく、心もです。自分のことを本物の絵だと認識してしまうようになるのです。それを止める術はありません。私たちもそう遠くないうちに心から絵になってしまうでしょう」

「じょ、冗談ではありませんわ! こんな、いきなり絵にされて、その上心まで絵になってしまうだなんて、そんなの許されませんわ!」


俺は怒りの感情を露わにしながら声を荒げた。

しかし、老紳士はそんな俺の言葉を聞いても何もかもを諦めたような表情のままだった。


「こうなってしまったら、私たちにはもうできることはないのですよ。後はただ静かに最後の時を待つだけ……」

「いいえ! 絶対に何か、絵から出る方法があるはずですわ! 諦めずに一緒に考え……」


そう言葉を続けようとしたところで、いきなり会場の扉が開かれた。

どうやら警備員が見回りに来たらしい。

その瞬間、俺は声を出すことができなくなり、また元の微笑みの表情で固定化されてしまった。

くそっ、またかよ……。

俺は内心苛立ちを募らせながら、微笑みを浮かべて前を見続けける。

こんな状況はとてもじゃないが耐えられない。

一刻も早くこの絵から出なければ。

俺は決して諦めず、現状を打開する方法を必死で考えた。




────────




「ほら見てアキちゃん、綺麗なお姉さん」

「ほぇー」


親子連れが俺のことを指差して見ている。

もちろん俺を俺として見ているのではない。

俺の下にある題字に書かれているように『椅子に座って微笑む貴婦人』を見ているのだ。


「アキも将来はこういう綺麗な人になるかな?」

「うん、なるー!」


そんな話をしながら、親子連れが離れていく。

ここを通る客たちはみんな俺のことをただの絵のように扱ってくる。

元が人間だなんて思いもしないと言った顔で。

当然と言えば当然かもしれないが、それでも俺はモヤモヤとした気持ちになってしまう。

前を見ると、老紳士が穏やかな顔で佇んでいる絵が目に入る。

あちらも俺と同様、人がいるときは本物の絵のようにピクリとも動かない。

確かにこうして見ていると、元が人間だったなんてとても思えない。

だいたい、人間が絵になるなんてそんなのはあり得ないことだ。

人間はタンパク質で構成された生物で、絵は紙に乗ったインクにすぎない。

そもそもが完全に別の物質なのだ。

だからあの老紳士の絵だって、今はただの絵であるし、わたくしもただの貴族の絵で……。

って違う違う!

わたくしは、いや、俺は人間だ。

絵なんかでは決してない。

絵の中に入ってから時間が経っているせいか、段々と自分の意識が塗り替えられてきている。

あまり良くない兆候だ。

このままでは老紳士が言っていたように本当に心まで絵になってしまう。

しっかり強く意識を保たなければ。




────────




また夜になった。

係員によって照明が落とされ、会場から人の気配が消える。

こうなればまた喋れるはずだ。


「お爺様、お爺様。聞こえますか?」

「…………」


目の前にいるお爺様に声をかけても、返事が返ってこない。

どうしたのだろうか。


「お爺様! どうしたんですか!? 返事をしてください!」

「……ん、ああ、そうか、私に話していたのか。こんばんは、お嬢さん」

「もう、しっかりしてくださいまし。わたくしが話せる相手はもう貴方しかいませんのよ?」


お爺様は少し寝ぼけたような様子で返事をしてくる。

なんだか、見ていて少し不安だ。


「ああ、そうですな。しかし、どうして私は話しているのでしょうな。ただのしがない一枚の絵にすぎない私が」

「ちょっと、何をおっしゃいますの!? 貴方は人間だったのでしょう? 元はうら若き乙女だったと昨日おっしゃっていたではありませんこと?」


しかし、お爺様は険しい表情のまま何かを考えるように押し黙ってしまう。

そして、息を吐き出すように落ち着いた声音で呟き始めた。


「確かに、そうだった気もする。しかし、今となってはそれもあやふやなのです。そして、自分がただの絵だという感情がどんどん強まってきている。本当に私は人間だったのでしょうか」

「お、お爺様……」


お爺様が、本物の絵になろうとしている。

それはいつか来る自分の未来のようでただただ恐怖でしかなかった。


「私はもう、ただの老人の絵なのですよ。貴女だって、もう絵としての自覚が芽生えてきたのではないですかな?」

「そ、そんなことは、ございませんわ……わたくしは、ちゃんと人間で……」


必死に頭の中で自分のことを人間だと意識する。

けれど、目の前のお爺様のように、わたくしも自分が本当はただの絵なのだという認識から逃れられなくなっていた。


「はっ、ち、違いますわ! わたくしは……絵ではなく……ああ、また頭の中でも自分のことをわたくしと……自分が、どんどん塗り替えられてしまいますわ……」


わたくしは完全に自分のことを見失い始めていた。

まだ自分が男性の人間だったことは覚えている。

けれど、今のわたくしの姿が本当の自分であるような気がして、前までのわたくしがわたくしではないような気がして、段々と自分という存在があやふやになっていく。

このままではいけない。


「と、とにかく、絵になってはいけませんわ。もっとたくさんお喋りをして、人間らしさを取り戻し……」


と、そこで警備員が見回りに来てしまった。

わたくしは微笑みの表情で固定化されてしまい、言葉を発することができなくなってしまう。

お爺様も、ただの絵のように微動だにせず佇んでいる。

ああ、いけない。

このままでは……。

なんとかしたいという思いはあるけれど、何もできないまま夜が更けていく。

結局その後、わたくしがお爺様と人間らしい会話をすることはもうなかった。




────────




お客様たちが、わたくしを見る。

興味深そうな顔、関心持っている顔、つまらなそうな顔。

色々な表情をしたお客様たちが、わたくしを見る。

わたくしは微笑みを浮かべたまま、眉ひとつ動かさず前を見ている。

反応を示すことはわたくしにはできないけれど、たくさんのお客様に見てもらえることができるのは、なんだか誇らしいような気分がしてくる。

昨日まではこんなこと考えもしなかったのに、不思議だ。

どうしてだろうか。

そうだ、昨日までは人間の姿に戻ろうと必死だったからだ。

今だって、本当はそうした感情を持たなければいけないはずなのに、何故だかわたくしはとても落ち着いた心境だった。

これが、昨日お爺様が言っていた絵としての自覚が芽生えてきたということだろうか。

絵は人に見られるために存在している。

見られることに喜びを感じるのは、わたくしが絵だからだろう。

ならば、わたくしはもう人間とは言えないのではないだろうか。

そんなことを考えながら、わたくしはただ微笑み続けた。




────────




夜。

会場が静まりかえる。

お客様が誰もいないこの空間に残されたのは、わたくしたち絵だけだ。


「…………あ」


表情が緩み、声が漏れる。

そうだ、誰もいないときは喋れるのだった。


「お爺様、聞こえますか……?」


何の気なしに、目の前のお爺様に声をかける。

けれどお爺様は反応しない。

ただの、一枚の絵であるかのように、全く動かずそこに佇んでいる。


「絵になって、しまわれたのですね……」


絵は喋ったりはしない。

そんなのは当たり前だ。


「わたくしも、喋るのは、おかしいですわね……」


わたくしも口をつぐんだ。

絵が喋って自分の言葉を伝えるのはおかしい。

絵というのはただ見られるためだけに存在するのだ。

そこに意思表示なんてものは必要ない。




────────




わたくしを、お客様が見る。

何人も、何人も、見る。

誇らしい。

気分がいい。

そういった感情も、徐々に薄れていく。

絵は所詮ただの絵。

紙に乗ったインク。

それが感情を持つのはおかしなこと。

絵はただ見られるだけ。

一切動くことなく、ただ描かれたままの姿で、人から見られるだけ。

見られるためだけの存在。

それがわたくし。

わたくしは絵。

お客様に見られる一枚の絵。

わたくしは絵。

わたくしは絵。

わたく……。

わ……。

……。







────────




「いやあ、美術展お疲れ様。無事に終わってなによりです」

「これも全部社長のおかげですよ。本当にありがとうございました」

「いやいや、そもそも貴女がいなければこの美術展は成立しませんでしたから、こちらこそありがとうございました」


開催期間が終了し、係員たちが全て出払った美術展の会場で二人の女性が会話をしている。

一人は若い女性、もう一人は高齢の女性だ。

どちらも気品のある高貴な雰囲気を感じさせる佇まいをしている。


「貴女から今回の企画を聞かされたときは驚きましたよ。まさか美術展を開いてその客を絵画に変えてしまうだなんて」

「最近アングラでは人気なんですよ。元人間の絵画というものが。ですから美術展を開き私の魔法で会場に来た客を絵画にしてしまえば、美術展の入場料に加えて高値で売り捌ける絵画も手に入る、一粒で二度美味しい大きなビジネスのチャンスだと思いまして」

「ふふふ、そこにビジネスパートナーとして噛ませて貰えて、私としても光栄です」

「私一人ではこんな美術展の開催なんてできませんからね。全て社長の財力の賜物です」


二人の女性が妖しく笑い合う。

二人とも、心底愉快で仕方ないといった表情だった。

ひとしきり笑った後、高齢の女性が一枚の絵に近づく。


「それで、この絵画たちはどう売り捌くのですか?」

「もうすぐ闇オークションが開催されるのでそこで出品します。告知も既に済ませているので、元人間の絵画を愛でたい変態たちがたくさん集まるでしょうね。社長も一枚どうですか? 今なら安くお譲りしますよ?」

「私は結構です。元人間の絵画なんて気色悪いだけですよ」

「それは残念」


すると、若い女性が懐から何枚かの写真を取り出した。


「それは?」

「絵画の元の姿の顔写真です。受付のときに撮影しておきました。これと絵画をセットにすると評判がいいんですよ」


若い女性が写真を絵画の隣に並べていく。

美女の絵の隣に小さな男の子の写真、太った男性の絵の隣にモデル体系の凛とした女性の写真など、それらはとても似つかないものばかりだった。


「この絵画なんて人気が出そうですね。老紳士の絵画ですが、元は女子高生だったんですよ。友人と一緒に来てた小柄で大人しそうな可愛い女の子でした」


杖をついて佇むスーツ姿の老紳士の絵画の隣に、制服を着た背の低い女子高生の写真が置かれる。

この絵画と写真の人物が同一人物だと言われて信じられる人間が果たしてどれだけいるだろうか、と若い女性は内心で笑いを堪えた。


「これなんかもいいですね。ドレスを着た貴婦人の絵ですが、元は精悍な青年でした。彼女と一緒に会場に来てましたが、今は彼女よりもずっと綺麗な女性になってしまって」


椅子に腰をかけ微笑んでいる貴婦人の絵画の隣に、Tシャツ姿の青年の写真が置かれる。

表情から佇まいまで何から何まで別人だが、これもまた同一人物であるという事実が、若い女性にとっては面白くて仕方がない。


「それでは後はこちらに任せてください。分け前の話オークションが終わった後にでもまた」

「ええ、楽しみにしてますよ。ふふふ……」


そう言って高齢の女性は席を外した。

会場内から出て行ったことを確認した後、若い女性がボソリと呟く。


「貴方たちも、これから新しいご主人様に愛でてもらうのを楽しみにしていてくださいね」


それぞれの絵画を眺めながら微笑む女性。

しかし、それに対して絵画が何か反応を示すことはない。

これらは所詮、紙に描かれた一枚の絵に過ぎないのだから。


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