今日も私は深夜まで残業に追われ、しかし帰ったところで自分一人しかいないアパートに直帰する気にもなれなかった。
気晴らしにどこかで一杯やりたいと思ったものの、この時間では開いている飲み屋はすでにない。
今日もコンビニの惣菜をつついて寝るだけかとため息をつきながら帰路につく。
そんなときだ、その店を見つけたのは。
自宅のすぐ近くの路地。
その奥まった場所から優しい灯りが漏れている。
普段なら気にも留めないその光に、何故か安らぎのようなものを感じてしまった私は、誘われるようにその店の扉を開いた。
そこは落ち着いた雰囲気のバーだった。
入ってみると他に客は誰もおらず、外国人の女性が独りでグラスを磨いていた。
隠れ家的バーというものだろうか?
お洒落とはほど遠い私には想像するしかない。
女性に今からでも注文できるかと聞いてみたところ、バーカウンターのど真ん中に案内された。
客が一人もいないとは言え、この席だと女性と目の前で接することになる。
こういった店に縁がなかった私は、少し身を強張らせながらぎこちなくスツールに腰掛けた。
バーテンダーの服装に身を包んだ女性はメニュー表ではなく、どういった酒が好みかと聞いてきた。
どうやら彼女は雇われのバーテンダーではなく、ここを経営するマスターのようだった。
ウイスキーを主とした沢山の洋酒が棚に並んでいるが、どれも見たことのない珍しい銘柄ばかりだ。
私もウイスキーは好きだが、それほど詳しい訳ではない。飲むのはコンビニでも売っているような大衆的なウイスキーだけだ。
確かにこの中から自分で選ぶのは難しそうだった。
『飲みやすいものを』というフワフワした返答に、マスターは少し微笑んでグラスと氷を用意し始めた。
ピッケルとナイフでカットされ、氷の塊が一つの作品に仕上げられていく。
洗練されたその動きに、私は目を奪われてしまった。
真珠のような白金色の髪に深い菫色の瞳。
冷たさを感じるほど整った容姿なのに、何故か相手を緊張させない柔らかい空気をたたえている。
こんな深夜でなければ、きっとこの店は常連でごった返しているだろう。
まさか自宅のアパートのすぐ近くにこんな店があるとは全く気づかなかった。
「キルケラン12年です」
カットされた氷にかからないよう、グラスの縁からゆっくりと注がれた琥珀色は、とろりとした艶を帯びている。
一口含むとスコッチであることがすぐに分かる潮の香り、しかし同時に感じる蜂蜜のように濃厚な甘やかさ。しかし、舌に感じるのは辛味だ。
スコッチは冷やすとせっかくの潮の香りが薄まることが多いのだが、このウイスキーははっきりと潮を感じ取ることが出来る。
にも関わらず、非常に飲みやすく軽やかに喉へと滑り落ちていく。
飲みやすいものをという曖昧なリクエストに答えつつも、私が予期していない複雑で楽しい味わいを提供してくれた。
このマスター、やり手だ。
「美味い…」
思わず呟いた私に、マスターは目を細めて微笑み、房についたままの干し葡萄をツマミとして提供してくれた。
それがまたこの潮を感じるウイスキーに合う。
あまりの美味さにニ杯三杯と酒が進んでしまい、気がつけばマスターに対してくだを巻いていた。
我ながら情けない。
『仕事がつらい』『家族もおらず一人は寂しい』『家に帰って、誰もいない暗い部屋の明かりをつけたときが一番虚しい』。
等々、そんな独身男の情けない愚痴を、マスターは肯定も否定もせずただただ聞いてくれた。
そうして私が愚痴をあらかた吐き出したとき、マスターは思いもよらぬ提案を私にした。
「では、こうしましょう」
酔いで火照った肌を優しく冷やす、彼女の柔らかい指先。
思わずビクリと跳ねた私の手を包み込むように、マスターは手を重ねてきた。
「手と手で触れ合うだけでも、寂しさは紛れるでしょう?」
「ここはそんなサービスを!?」
と混乱する私に、マスターは少しいたずらっぽい微笑みを浮かべる。
「まさか、私も少し寂しかっただけです」
それは私を慰める言葉だったのだろう。
彼女の優しさが、寂寥で乾いた心に染み渡るようだった。
最後の一杯を飲み切るまで、私たちは手を重ねたままだった。
これ以上居座るのはあまりにも甘えているだろう。
幸い彼女に千鳥足を見せることはない程度に酔いは覚めていた。
会計は少し高かったが、常識的な範囲内だ。
むしろこれほどに癒されて、安すぎると思うくらいだった。
「(絶対に明日もまた来よう)」
深々と頭を下げて私を見送ってくれるマスターに私は固く決意するのだった。
麻美 藤田
2025-05-31 22:46:02 +0000 UTC